記録用

考えたことの集積場

いろんな学びの場を見て考えたこと


2017年の8月から12月にかけて、4つの場所で「学び」について経験したことを、遅ればせながらまとめてふりかえったので書きます。長いです。2000字くらいあります。
キーワードは「集団でできる学び」と「点と線と面の学び」です。(借り物の言葉ですが、これ以上言い換えられないので引用しました…)
学びって、自分が納得して道を選んで生きるために学ぶのかな、と4つを通して思います。

◼︎旅×アート×αを体験するサービスのデザイン合宿(8/26~29)@香川:直島・豊島
◼︎2017年度日本デザイン学会秋季企画大会(10/13~15)@北海道:函館
◼︎サービスデザインワークショップ2017:Vol.2東京ステージ(12/9~10)@東京
◼︎Xデザイン学校公開講座in大阪:サービスデザインをパターンで考える(12/22~23)@大阪


①集団だからできる学びの形がある
未来デザイン研究会での夏合宿では、「個の学び」と「他者との関係性の中での学び」の相関が大事である、と経験した。
対象に自分で向き合い、自分という枠を突破して学びを深めるために他者と議論して、また自分で向き合う、という繰り返し。これが集団でしかできない学びの深め方であり、未来研でできる学びだ。

②面の学びを体感する
はこだて未来大の原田先生が以前から提言されている「点と線と面の学び」というものがある。
学生、社会人、大学教授でチームを分けて課題解決(あるいは、価値提案)WSを行うと、3つの学びのパターンにわかれる、というものだ。たぶん、以下のような把握だと思う。(間違っていたら教えてください!)

学生は「ひとつひとつの発見をするものの、発見を関連付けることができず、本質に迫れない=点で終わる学び」
社会人は「本質に迫るルートをひとつ見つけると、そこまで最短距離で進む学び=線の学び」
教授は「様々な角度から発見を見つけて、多角的に本質に迫る学び=面の学び」

この話を前提にして行ったフィールドワークでは、仮説や予想を元にするのではなく、純粋にフィールドワークの中に落ちている発見を大切にして函館のまちを歩き回った。


③点と線と面を比べてみる
東京・大阪でのWSでは、上記の「線の学び」と「面の学び」の比較ができた。
グループは「仕事でサービスデザインを行っている社会人」「サービスデザインを(たぶん)初めて学ぶ台湾の方」もしくは「サービスデザインを初めて学ぶ学生」で構成され、課題に対する取り組みの形がはっきりと違うのが印象的だった。
この違いを見ていると、どんな取り組みの形のなかでも学びの場においては、「自分が今、この場から学びを得るためにはどうすればいいんだろう?」と問いながら取り組むことが大切なのでは、と思う。

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▲WSが終わった後に、こういう構図だったんだなと振り返ったメモ。
これをWS中に、自分が今している考え方って、本当にこの時間で一番学べる方法なの?と疑ったらもっと違っただろうか。 

④「集団の学び」に必要なもの
全てがグループワークだった4つを通して感じたのは「他人と100同士で議論する必要性」だ。
「集団の学び」において、遠慮や思考のセーブは大きな障害になる。
経験者と未経験者が同じ学びの場にいたとき、「未経験者の学びになるように」と身を引いてしまう状況を何度か経験した。しかし、未経験者側にとっては非常に歯痒いことだと体験してわかった。
上記の画像でいうなら、Bは100を出して臨んでいても、Aが70しか出さなければ、Aの想像の範疇で議論が収まってしまうことに、(それを提案できないことも含めて)歯痒さがあるのだと思う。
これは「Aの線以外の場所に落ちているかもしれない学びを得られない」からだ。
学びに来た場所で失敗しないことは学びにならない。誰もが100の出力でなければ、①で書いた「自分の枠を突破する」ことも叶わない。
集団で学ぶためには、同じ考え方の人ではなく、同じ熱量の人が必要だ。
わたしの世代の未来研ではそういう環境があったのではないだろうか。

 
わたしが大切にしたい学びの姿勢
(1)「自分が今、この場から学びを得るためにはどうすればいいんだろう?」と考える
(2)「点と線と面の学び」を頭において、今自分はどこにいるのか、を考えてみる
(3)学ぶ場では誰もが100をもって臨む(そうでなければ、自身の/互いの学びにならないのでは?)

学びの場の観察をする中で、学生と社会人って「問いへの時間の割き方」のクセが違うのだと思いました。

わたしはこれからどうなっていくのかな、と不安に苛まれていたら、先日安武先生からこう言われました。いつか自分がこの記事を見直したときに、「そうだよね」と言えるために書いておきます。
「あなたたちの学ぶスタイルは、『作って壊すを繰り返す』こと。だからずっと固まらずに変化していけるんですね」

長くなりましたが、今年も頑張って走っていきます。
昨年は大変お世話になりました。きっとこのブログを読んでくださっている方には特にお世話になっていると思います。ありがとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。


頭を使うということ

頭を使うということ」についていろいろ考えたので、書こうと思います。

私は昨日16日、クックパッドさんのキッチンラウンジにて開催されたUXの基礎講座で、グラフィックレコーディングをさせていただきました。講師は浅野先生です。HCD-Netに引き続き、大変お世話になりました。

まず、「頭を使うこと」と「」の話から。
上記の講座の会場にいらっしゃった方の中には、隅で女子大生3人がヒソヒソ話しつつ本や資料を床にばらばら広げている姿を横目に見た方もいるのではないかと思います。実は、講座のタイトルでもある「UXのきほん」をできる限り事前に自分たちで理解してグラレコへ役立てようと、三者三様に必死に本を読んで勉強して臨んでいました。
私は本を読むのは好きです。しかし、勉強として本を読むことはとても苦手です。これを言うと「わからない」と言われることもあるのですが、「読者が内容理解がしやすいように心がけた小説のような文章」が苦手なのではなく、「読者が思考して内容理解へ歩み寄らなければならない勉強のための文章」が苦手なのです。
要は、頭を使って内容を理解することを、普段からいかに行っていないかがここで出ている、というわけです。多分。

話が飛び飛びになりますが、人の話を聞くときのメモも同じことではないでしょうか。
メモを取るときって、いろいろパターンがあります。料理番組のレシピや分量、講義で先生が反復した言葉、誰かにインタビューした会話内容、会社説明会の人事の人のお話、などなど。これらを分けるとしたら、以下の二つになると思います。

自分が一方的に聞く立場のメモ
自分と相手が会話をするときのメモ

①は膨大な情報の中で、「忘れたくないこと」を手元に書き留めるメモです。料理番組や講義がこれです。あとから必要なときに見返して、役立てるものです。
②もやはり「忘れたくないこと」を書き留めるものですが、それだけでは足りません。「会社説明会でのメモ」を想像すればなんとなくわかるかと思うのですが、人の話を聞いた後に質問をしなければならないんですよね。それは自分があとから「聞いとけばよかった!」と後悔しない為でもあり、相手へ興味を持って聞いていますよ、という一種の意思表示でもある…。
この「会話をするときのメモ」では、3つのことを同時に行っています。
相手の話を聞くこと、忘れたくないことを書き留めること、更に「メモした内容について思考し、ナゼ?と思うこと」です。
「興味を持って話を聞いているのに、質問がうまく浮かばない!」「聞いているときは理解した気分になるのに、あとから考えたら全然わかってない!」という事態は、おそらく3つめが足りないのではないでしょうか。
そして3つめの要素は、上で挙げた「頭を使って内容を理解すること」が該当します。
つまり、頭を使って内容を理解することをせず、①と同じようにメモをとっているから、ナゼ?が浮かばず会話に繋がらないのでは、と考えています。
そして私は、本を読むことと同じように、やはり「質問が浮かばない!」という事態に延々と苦しみ続けていました。

さて、ここで冒頭のグラフィックレコーディングに話が戻ります。
今回のように様々な人がいる場所でグラレコを行うと、「グラレコってどうやるの?」と聞かれることがしばしばあります。私はそのときにいつも「模造紙に書く方法」を答えているのですが、元を辿れば二種類のメモと仕組みは同じです。
①のメモは今回クックパッドさんで行った議事録的なグラレコです。先生の話を聞いて、「忘れたくないこと」を書き取ります。
②のメモは恐らくグラフィックファシリテーション寄りだと思います。もしくは、グラレコ全体の仕上がりを管理するディレクション役。
人々が話しあう会話を聞いて、要所を書き取って、話し合いの流れと目的とのずれなどを考えて行うファシリテーション。人の話を聞いて、どこが要所なのか、見る側にとってどんな情報が見易いといいのか、それに沿った画面になっているかなどを常に平行して考えてグラレコを整えていくディレクション。これらもやはり、会議に対しての理解しようとする思考を大量に使わなければできません。
ここへ来て案の定、私はファシリテーションも苦手です。全体を考え、流れを読み、どこがポイントだったのか、どの会話が重要だったのか、どこを補助してあげれば会議が活性化するのか、などを模造紙へ書き出しながら判断してまとめていけるほど考えることを訓練できていません。

以上をまとめると、私が「できない」「難しい」と言い続けていたことは、すべて「頭を使って理解しようと意識すること」の欠如が原因だったのかもしれない…と気がつき、がっつり衝撃を受けました。情けない!!

今回の講座では、浅野先生から事前に「耳の穴から血が出るくらい考えておいで。」と仰って頂き、頭を振り絞って赴いたつもりでした。本当につもり、だけだったのだなあとこの記事を書きながら実感しています。
しかしながら、考え方というのは「意識してると、そのうち慣れる。」これも浅野先生の言葉でした。
本を読む時に、書いてある文章を鵜呑みにしようとして混乱するのではなく、一度自分の中で分解してみて、理解に繋げる。と書くとなんだか難しいのですが、とにかく理解しようと全体の文脈を追ってみる。
人の話を聞く時のメモも然り、そう考えれば「頭をつかうこと」の訓練はとても身近からできることです。

できないできないと言うのではなく、できないことを並べて砕いて原因を探る。
そうすれば改善点が見えてくる。あとは実践するかしないかです。
もちろん、します。

 



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いい旅ってなんだろう?

今回は「いい旅」について考えたことを、ちょっと記録しようと思います。

 

というのも、本日(24日)こちらのWSでグラフィックレコーディングをお手伝いさせて頂いてきていました。

www.hcdnet.org

5回に分けてサービスデザインの手法を勉強しよう、という講座内容なのですが、ワークを行う中で「旅」に関するデザインを行っています。参加者総勢40名、意欲満ち満ちた社会人の方々のワークを間近で観察させて貰っています。

そんな中、今回は今まで作ったペルソナやシナリオを元に、実際にプロトタイピングから「アクティングアウト」までを行うというワーク内容でした。

8チームそれぞれが考えたアプリケーションサービスを、ユーザーがどのような状況で利用するのか?実際にチームの方々に演じてもらいます。皆さんなかなかの熱演ぶりでした。私はレコーディングが大詰めだった為、作業の片手間に耳を傾けていた状態だったのですけれども。

そこでひとつ、感じたことがありました。

何でも提示してくれる形サービスが多い…!」と。

これが「いい旅」を考えるきっかけです。

 

いろんなユーザー、利用状況の中でありながら、気を回して様々な案を提供し、完璧な旅をサポートしてくれるアプリケーションサービス。人間は選ぶことだけをすれば良い。頭が良くて一見素敵な旅を演出してくれる、頼もしいアプリに見えます。実際、少し前だったら私も考えていたと思います。秘密の穴場、自分好みのお店、ちょっと横道に逸れると佇む…どれも特別感のある素敵な場所です。そんな場所に行ける旅なら是非行ってみたいのだから、提示してくれるならいいのでは?

各チームでどんなプロセスを踏んでプロトタイプとして上がってきたのかはわかりませんが、そんな「頼もしい提示型」という大枠が被るチームが多かったな、と感覚として感じました(否定しているわけではありません…!)。

 

そこで思い出されたのが、8月末〜9月頭にかけて熊本に合宿に行ってきた時のことです。

合宿のワーク内容とは別に、自由に熊本を旅する日として設けられた1日がとても楽しかった体験です。

私はこの自由行動で何をするか?どこにいくのか?等々のプランを全く、本当にひとつも決めていませんでした。わざと調べていないのではなく、単純に調べる手間が面倒であったり、「ここにいきたい」という欲求が薄かったりと、理由はそんなところ。「ブラブラしてればいいかな」と思っていたくらいでした。(しかし普段街をぶらついたりなどしない…。)

すると、何があるのか?どこにあるのか?を調べなさすぎて、困るよりも先に訪れる場所の新鮮味が格段に増したのでした。

大きな商店街(熊本市中央区にある本当に大きなアーケード商店街)のお店のラインナップがまずわかっていません。ついでに方向音痴気味なので、自分の足でひたすら歩いてどこになにがあるのか、を地図を開拓するような感覚で覚えていきます。一つ横道に逸れればこぢんまりとした本屋に入れたり、実は有名ブランドのショップがあったり、飲み屋の通りが続いたり、風俗店(!)が立ち並ぶ道に入ってしまったり…。行く場所を決めないからこそ好きな場所を見つけては入り、もっと面白いところは無いかとそこでようやく現地のお店について調べてみたり、現地の人にお店を聞いてみたり、エトセトラエトセトラ。印象的な体験は尽きません。無計画ゆえに予想外なことしか起こらない旅の体験になったのだ、と今振り返ると思います。

 

少し話は変わりますが、以前UX名古屋のワークショップでとある方の旅の体験をもとに上位下位関係分析法でラダーアップを行い、本質的欲求を出したことがありました。そこで出てきた欲求は、「旅の過程にあるゲーム性を楽しみたい」という欲求。旅費が安くなるポイントを日常的に貯めたり、安い飛行機を利用することで旅の確実性をあえて回避したり、イレギュラーな事態すら楽しめるというスゴい欲求です。

私が今回体験した、自分の足で現地を開拓していく感覚も、何も知らない土地で好きな場所を見つける喜びも、ちょっと足を踏み入れがたい場所にうっかり入ってしまった焦りにも、このゲーム性に近いものがあると思います。

これって、旅のサービスを提供するときによくキーワードとして出てくる「非日常体験」の一つなのではないでしょうか。私はこの「非日常体験」という言葉が語義の曖昧さから使うのが苦手で、どうにかもっと詳しい別の言葉を探しています。そんな中で、この「ゲーム性」(これもこれでちゃんと説明しないと意味が伝わらないですが)という言葉は、「非日常」をもうちょっとわかりやすく言い換えられる言葉だなあと現代っ子でテレビゲーム好きな私としては感じました。

 

苦労すら楽しみに変わる体験って、結構スゴい体験なんじゃ…!?では、これを実際の儲かるサービスに落とし込むとして、どうすればいいんだろう。詳しく考えているわけじゃ無いけれど、「頼もしい提示型」ではダメなことは明白です。

何も知らないから、確実性が薄いからこそ体験できることならば、何でもかんでもサポートしてくれるのでは意味がないからです。

 

ここでHCD-NetのWSに話が戻ります。

浅野先生が今回のWSで仰った、「人がバカになるアプリ」という言葉がじわ〜っと効いてくるのです。「頼もしい提示型」は「人を考えさせないアプリ」です。私は現地で探したり考えたり調べたりすることで、印象的なシーンを重ねていきました。しかし考えさせないということは、「苦労」という経験を削るということではないでしょうか。苦労は記憶の紐付けを強固なものにしてくれる大切な経験でもあります。良い思い出の裏の苦労。これすら楽しめる欲求が「ゲーム性を求める」欲求でした。

つまり何が言いたいかというと、「頼もしい提示型アプリ」は「思い出の薄い旅にさせかねないアプリ」になってしまうのでは…?ということ。「楽しい経験を作るアプリ」なのではなく、「楽をさせるアプリ」になってしまっていたのでは?と。

「楽しい旅の体験」と、「楽しい体験しか無い旅」はイコールではないと思います。理由はツラツラと話してきた上記の通りです。

浅野先生が「どこかで人のサポートを放り出すアプリとかいいよね」と笑いながら仰っていたのは、そういうことではないかな、と気がつきました。「苦労して達成したこと」には「価値」がついてくるのです。アイドルの下積み時代とかを考えるとわかりやすいと思います。Perfumeとか。

ユーザーは旅を通じて「楽をしたい」のか?「楽しかった!」と言いたいのか?「いい旅」と言える旅って、どんな旅なのか?このあたりを突き詰めていくと、「旅の体験をデザインする」ということがどんなものなのか、カタチをもってくるのかなあ、と。

 

ユーザーにとっての良い旅って、どんな経験が自分の中に積み重なってくれる体験なんだろう?

これってきっと、自分の経験が深まらないと理解がとても遠回りになってしまったり、そこまで考えが及ばなかったりするのだと思います。

もっとたくさん自分を育てる経験をして、また旅にいったときに、もう一度考えたいなと思いました。

 

 

0923

 

前回の情報デザインフォーラム後、一晩津田沼のホテルへ宿泊して帰宅。

何度かイベント関連で東京まで赴くのですが、普段は翌日に大学があったり、直帰できるならしたいとホテルを取っていなかったりすることから、翌日が一日空くというのは初めてだったりします。

それならちょっと東京で遊んで行こう!

ということで、遊んできました。

遊んで来た中でちょっと「ン?」と思った出来事を記録しておきます。

 

どこに行くかあまり決めずに行こうと考えていたのですが、丁度私の大好きな「Perfume」の10周年記念イベントとして「Perfume展」が開催されているとの情報を聞きつけ、これは行くしか無いだろうと。

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チケットは前売り券もあったようですが、当日券で。

ついでに東京で誰か会えないかと探していた所、高校の頃の先輩がご都合がつくとのこと。実に2年ぶりの再会です。

津田沼から電車で揺られる事およそ1時間。渋谷につきました。

とりあえずタワレコを探し人の流れに身を任せ、レジカウンターにて販売しているという当日券を買いに並びます。すると、レジのお姉さんは後ろのタイムスケジュール表を指しながら

「今からですと14:00-15:00の回になりますが、よろしいですか?」

と仰ります。ハイ、ハイとひたすら頷く私にサクサクとチケットを用意し金額を提示、購入までは自然な流れ。私はここで既に大きな勘違いをしました。

今私が買ったのは、14:00-15:00の時間に有効なチケットなのだ」と。

で、購入際にお姉さんは(恐らく何度も行っている流れで慣れがでたのかと思いますが)、さらっと「チケットとは別に整理券が必要で、整理券はあちらのカウンターでお配りしています」と教えてくれました。私は整理券という耳慣れない単語を聞きハテナを浮かべましたが、「時間指定のチケットは買ったし、きっと先着順ということだろう。早めに来た人から整理券を配って整列するのだ」と受け取って、高校の先輩とそのままランチへ…。

 

で、14時になる10分前。わくわくしながら整理券を受け取りにカウンターへ向かいます。すると、カウンターのお姉さんは「何時からの回がご希望ですか?」と。

あれ、私は14時からのチケットを購入した筈なのですが。嫌な予感を抱えつつその旨を告げると、お姉さんは困ったように「整理券はお持ちですか?」と仰る。戸惑う私と困惑するお姉さん。後ろにはちょっと哀れみの色を浮かべたPerfumeファンの皆さん。

チケットとは別に整理券を持っていないと入れないんです。お客様がチケットを購入した時点では、整理券が14:00-15:00のものがまだ残っていたのだと思います…」

なんとまあ。整理券ってそういうことか。行列のパンケーキ屋さんが並んでいるお客さんに配る整理券とはワケが違うのか。

お姉さんも事情を察したのか、「どうしてあげることもできないけれどクレームついたら困る…」という顔に変わっていきます。お姉さんに罪は無い。

「では、16:00-17:00の回の整理券をください。」

お姉さんの顔に一気に安堵が広がりました。先輩に平謝りしながら再度合流、買い物をしつつ時間を潰しつつ。整理券には「集合は20分前からです」との記載があり、15:40にもう一度タワーレコードを訪れました。カウンターのお姉さんはシフト交代しており、覚えられていたら気まずいとひっそり思っていたのでほっと胸を撫で下ろしました。

展示は8Fでしたが、整列が7Fからということで7Fへ。すると列整備のスタッフのお兄さんが丁度番号を呼んでいます。

31番から40番の整理番号のお客様〜!

慌てましたとも。既に整列は始まっており、私の番号は28番。「もう並べない…!?後ろにつくしかない!?」と冷や汗が。恐る恐るお兄さんに「この番号なんですけど…」と整理券を見せます。

「あ、では階段の上へお並びください」(※人数が多いので8Fから下に伸びる階段にそって整列していた)と言われ、言われるがままに並びます。順番は関係ないのかな?10人ごとに整理しているのかな?と悩んでいる所へ、

「前後の方と番号を確認して順番にお並びくださ〜い」

と別のスタッフさんからお声掛けがあり、そこで私はようやく整理券の役目が全てわかりました。

コレ、指定時間の中で更に入場の順番を決める整理券だったんだ!」と。

チケットはあくまでお金を払った証拠でしかなかったのだと。

自分の場所を見つけて並んでいると、先程のお兄さんの所で困惑する人が何人か見受けられました。また、私の側にいらっしゃったファンの方の会話で聞こえて来たのは、

「これチケットと整理券ややこしいよね。全部ひとつにしてくれればいいのに」「さっきのカウンター人居なかったし、整理券必要だってわかんない子いたんじゃないかな。今からだと17時からの残ってるのかな〜…」「Perfumeイベントの体制じゃなくて、ココの管理の問題だよね」等々…整列に関しては皆さんも感じる所が少々多かった様子…。

勿論イベント自体はとても素晴らしい内容で、こんなゴタゴタが吹っ飛ぶ程に楽しかったです。ですがこの関係で自宅へ帰る予定が狂ってしまった事もあり、少し後味の悪い東京散策に…。

もしレジカウンターのお姉さんが整理券の役割を説明してくれていたら、余裕のある帰宅になったかなあ、とか。先輩の予定を振り回すような事が無かったかなあ、とか。もしくは私がもっと事前に調べて読み込んでいたら違ったのかなあ、とかとかとか。

これってもうちょっと良いデザイン、できませんか。

そんな事を思ったPerfume展でした。

第17回情報デザインフォーラム

 
千葉工業大学にて開催された情報デザインフォーラムに、ポスター発表者として参加してきました。
テーマは「キヅキとデザイン」。私なりのキヅキをまとめました。
 
▶︎WSにて出た「未来のデザイナー像」への違和感
▶︎「愛が無いね」の「愛」が必要なわけ
▶︎「作業」とは
 
あんなにたくさんチームがあったのに、20チーム×4人もいたのに、懇親会でWSの「未来のデザイナー像」をお聞きすると似通った印象がありました。全てのチームの方のデザイナー像を聞いたわけではありませんが。
「様々な職域・視点、考えの人を一つの目標へ引っ張り、管理し、活かすディレクション能力」「目の前の問題解決ではなく、問題解決の先までを見据えて行く視野」「”デザイナー”ではなく”デザイナーズ"」この辺りが皆まとまって同じであるように感じ、また、人に聞いた際に率先して出てくるワードでもありました。加えて、「未来のデザイナー像」≒UXデザイナー?のように感じ、未来のデザイナー像ってこんなに固まってていいんだろうか?それって今のデザイナーではないのか?と疑問に…。何かこう、何か原因や他にデザイナー像があるのではないか?とモヤモヤしています。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
予想としては、情デフォーラムの場に集まる人々という種類の人達の未来像だったからか、「未来」ではなく「今」の中の少し進んだ人、というデザイナー像だったからか、と考えています。似通っているのはこれからのデザイナーに必要なことが明確にわかっている人の集まりであったからかもしれないし、これから本当に大切なことが出て来たのかもしれないのですが。この辺りが解決できませんでした。
 
一方、スッキリしたこともあります。自分のチーム内で何気なく出た「信念とか根性が要るよね」「問題を発見する力が要るよね」、他チームから出た「体力が要る!」というお言葉から、「それって愛ありきだな…」と頭の中で結びついた事です。
というのも、今回私がポスター発表を行った現在進行中のプロジェクトが大きく崩れた際、未来デザイン研究会の先輩から頂いた「愛が無いね」という一言を頂いたばかりだからでした。「愛って?現地取材で”好感”は湧いたけれど…」と哲学の議題のように悩んでいたのですが、信念や根性、体力を注ぐことや、問題を抱えている事象の中の核心になっている原因を考える為には、その相手(対象)への情熱≒愛が必要なのだとようやく理解できたのです。
以前から定型文のような文章として「愛や相手へ尽くす気持ちが大事なんだよ」ということを聞いていたものの、逆に「愛が無ければ何ができないの?」「手法を経て問題解決をするだけではどうして駄目なの?」ときちんと考えていなかった事に気が付きました。これも気付きです。
そしてこれを考える上で、現在崩れかけてしまったプロジェクトへ向かう数日前の自分の間違いにも気が付きました。私は恐らく愛を持ってプロジェクトに臨もうとしていたのではなく、「頭を使う」という作業をしようという気持ちでプロジェクトに挑戦しようとしていたのです。常日頃から「作業になっているよね」と突っ込みを頂いていますが、ただ手を動かすことだけが作業ではないのだろうと思いました。
 
また、情報デザインフォーラム開始前の千葉工大の方々の発表も少し聞く事が出来ました。そこで驚いたのは、参考文献の中身まできちんとまとめ、それが制作のどこに活きているのかが明確だったことです。どこに活きたのか?が明確ということは、文献の中身を理解して応用までができているということ。自分の中でそれなりに活きてくるだろう、とぼんやり考えていた部分にグサっと刺さりました。
 
ポスター発表に関しても年代・職業様々な方からアドバイスや質問を頂きました。今回の気付きも加えてこれからの取り組みに活かしていきます。
今回の失態は問いを明確に持たないまま過ごしてしまった事。デザイナー像に関しては特に。あとから「もっと聞けば良かった」と後悔しました…。
また、安藤先生のお言葉で「そんなのわかってたよ、というキヅキが学生から出てくる」というお話があり、これも刺さりました。上記の私のキヅキは浅くないか?と不安になりつつも、浅ければ調査の浅さや大雑把にまとめてしまっていることや、得た情報の結びつきが単純すぎるということ。WSでのお言葉は、こういうところにも出てくるのだな、と。
 
あともう一つ印象的だったのは、パソコンを使用したオンラインRTDです。今回の省察をする際にも使わせて頂きました。
研究会の活動で議事録的にパソコンを使って発言などを記録することは私もあるのですが、目に入ったときの全体の統一されたフォーマットに驚きました。そのまま冊子にできてしまうような美しい配置や文字サイズの飛び具合、フォントの使い方。現場で撮影した写真も差し込み、講演やWSなどの活動に合わせた構図がきちんとできあがっており、見たくなる情報のまとめ方だなあと逐一追いながら参加していました。
会場内でも頻繁にスマートフォンで更新を行う方がちらほら見られました。WSになるとそれぞれが行動している事もあり見る事は途絶えがちでしたが、WSの様子や各チームの発言、出来上がった作品、進行の記録がきっちりと行われている事にそっと感動しました…。
 
こうした場所に来ると心が端から折れて行くのを感じるのですが、同時に下がりかけていた意欲がまた頭を出してきます。現地でお話してくださった方、ポスター発表に耳を傾けて下さった方々、ありがとうございました。

0826

春頃に買って一部を読んで以来、まともに読んでいなかった本を再び読み始めました。

内容の意味や説明されている事柄が、自分の今までのやってきたことの過程にするする当てはめて落とし込む事が出来るのが少し楽しく感じます。

夏期休暇もあと少しなので、終わるまでに二冊程読み終えたいと思っています。